アダムとエバと蛇―「楽園神話」解釈の変遷作者: ぺイゲルス,絹川久子,出村みや子出版社/メーカー: ヨルダン社発売日: 1999/07メディア: 単行本この商品を含むブログ (1件) を見る

ペイゲルスは、現代社会において結婚、離婚、同性愛、中絶、避妊、ジェンダーなど性現象(セクシュアリティ、とルビ)をめぐる著しい変化が特にキリスト教徒にとって伝統的な価値観を揺るがすものとして存在しているが、そもそもキリスト教徒が持っている伝統的なジェンダーパターンやセクシュアリティに対する考え方はキリスト教ローマ帝国の国教へと変質した時期に発展したものであるとし、さらにそれらが異教的習慣とユダヤ教の伝統的な道徳観の二つからの逸脱形態にすぎないのであると述べている。

ユダヤ教セクシュアリティと結婚観は生殖のためにのみ存在する。それは創世記にある記述「生めよ、増えよ、地に満ちよ」に回帰する。(よってここからしばらく性行為と結婚は切り離せないものとして考える)
ヨベル書著者が創世記を読み直し文書を記したことにより、ユダヤキリスト教の伝統的なセクシュアリティと結婚観を形成したと考えられる。ユダヤ教の中でもパリサイ派は婚姻関係にある男女の性的快楽のための性交を認めており、エッセネ派は性的な自制を主張していたなどの違いはあるが、生殖のためであれば不妊の妻を離縁し新しい妻を娶ること、あるいはポリガミィ(重婚)を認めていた。

エスはその結婚観に根本的に挑戦し、神が結び付けられたもの(夫婦)を離してはならない(マタイ19:4−6)と離婚に反対した。
→対する当時のユダヤ教のラビたちは、離婚できなければ結婚は自らを不妊の女(ウマズメ)に拘束し続ける不都合なものとなると主張した(なんて身勝手な・・・)。
エスはそれに、「できれば結婚しないほうが良い」と応えた。

当時異教徒の間では、同性愛行為、近親相姦、獣姦などのヘンタイ行為がはびこっていた。

エスの結婚観はユダヤ教父権制的結婚構造の否定ではなく、それら異教徒のヘンタイ行為や、ユダヤ教のポリガミィ、離婚といった伝統を根絶することが目的であった。

パウロはしきりに書簡の中で独身を保つことが素晴らしいことであると説いているが、第Ⅱパウロ書簡(聖書には筆者はパウロとしるされているが別人が書いたものである)にはエバ(イヴ)が最初に誘惑を受け人類を堕落へと追いやった存在であることを前提とし、全ての女性はエバの性質を持ち、その本質的な弱さと欺かれやすさを主張している(Ⅰテモテ2:11−15など)

初代教会時代における様々な結婚観と創世記理解

シリアのキリスト教の指導者であったタティアヌスは、アダムとエバが性交の発端であるとした。神から食べることを禁じられていた知恵の実を食べた後彼らは性に目覚め、そのとき二人とも自分たちが裸であることを「知った」(創世記3:7)のだ。
「知ること to know」を意味するヘブライ語 yasa'には性交するという意味も含まれることを創世記4:1に根拠付けて唱える説が有力であるため(そのときアダムはエバを知った。彼女は身ごもって男の子を産んだ。)タティアヌスは性交そのものを悪とし、性交=結婚という考えから、結婚を考案したアダムを非難した。アダムとエバは結婚(性交)した罪の故に楽園から追放されたと考えた。

禁欲主義者であったカッシアヌスは、性交を考えたのはサタン(蛇)であるとしサタンを非難した。

アレクサンドリアパウロの死後1世紀以上たった後に執筆活動を始めたクレメンスは、性交は罪ではなく神の「善なる」創造の一部であると述べた。しかし、知恵の木の実から「肉」に関する知識を得たアダムとエバは、まだ未熟であったときに性交を行ったために罪が課せられたと述べた。そして、男性の自然優位性と神がエバに加えた罪の両方を踏まえ、父権制的結婚構造を肯定した。

グノーシス主義キリスト教徒たちの解釈

グノーシス主義者は聖書を一字一句字義通りに受け取らずに、アレゴリー(寓話)的な読みをした。すなわち、表面的な記述にとらわれるのでなく、創世記に書き記されたことばを神話として理解した。
正統派キリスト教徒は、共同体のための規則を定式化するためエバに堕落の罪を課し、よって女性は従属するものという父権制的な結婚観を持っていた。
対するグノーシス主義者は、エバは霊を、アダムはたましいをそれぞれ象徴するととらえ、アダムがエバを見出した瞬間を、忘却の状態にあったグノーシス主義者が突然、自己の奥深くに内包されていた霊の存在に目覚める経験を予表しているものとして読んだ。
グノーシス主義者たちは、創世記の記述を魂と霊の相互作用という観点から、結果的には霊的な自己発見の過程にある一個人の内的なストーリーとして読んだのだ。

あー、以下つづく・・・。